少数派言語の翻訳が命を救う

利用者(話者)が少ない、あるいは利用される範囲が限定される「少数派言語」を守ろうという試みがあります。少数派言語は、先住民族などの言葉も含めると6,000以上も存在します。にもかかわらず、それらが使用される機会はまれです。英語をはじめとする多数派言語と少数派言語の両方を理解できる人もいますが、少数派言語のみしか理解できない人は、本来入手すべきはずの情報を入手できない、といった事態に陥ることになります。スーパーマーケットのセールの情報なら笑い話で済むかもしれませんが、もしそれが医療のような、生きるために必要な情報だったら……。言語の保全は、文化的な必要性に留まらないのです。

言語は平等ではない

世界中の少数派言語のみを使っている人の多くは、彼らの言葉で医療情報を得ることがほとんどできません。例えばインド。この国には数え切れないほどの言語が存在していることは知られていますが、医療情報がすべての言語に翻訳されているわけではありません。インド政府はヒンドゥー語と英語を国の公用語と定めており、その他の言語をどのように扱うかは、各州の判断に委ねています。

また、メキシコではスペイン語が多数派言語ですが、238もの言語が現在も存在しており、うち68言語だけが、メキシコ政府の「言語の権利に関する法律2003」によって、公用語として認められています。これによって情報提供に偏りが生じていることが予想されます。

このように、世界のあらゆる少数派言語が平等に扱われているわけではありません。特定の少数派言語の話者は、自分の国にいながら「言葉の壁」によって情報が得られないばかりか、必要な医療処置が受けられない事態にも陥りかねません。最悪の場合、生死に直結する問題にもなり得るのです。

言語の壁が死をも招く

人道的翻訳サービスの提供を目的として2010年に設立されたアメリカの非営利団体(NPO)「国境なき翻訳者団」 (Translation Without Borders; TWB) は、 言語による情報ギャップを埋めるべく、これまでに3,000万語を超える翻訳を行ってきました(2017年10月の時点では、翻訳したワード数は5,000万を突破)。これは、翻訳料金に換算すると600万ドルに相当します。

TWB ケニアのプロジェクトマネージャー Peter Kamande はインタビューで、自身の経験を語っています。 Kamande の友人は、不衛生な環境下での中絶に伴う合併症で亡くなりました。 Kamande は、避妊方法に関する情報が英語でしか入手できず、現地の少数派言語では提供されていなかったことが、友人の死の原因だと話します。医療施設から配布されたパンフレットは英語で書かれており、英語が読めないその友人は、理解できなかったのです。彼女は友人の助けを借りて内容の理解に努めたものの、その友人の英語力も不十分だったため投薬指示を読み間違え、数日後に18歳の若さで他界したのです。まさに、言葉の壁が早すぎる死を招いたと言えるでしょう。

翻訳・ローカライゼーション業界を専門とする調査会社「コモンセンスアドバイザリー」 (Common Sense Advisory) が2012年にアフリカ地域の翻訳者に対して調査を行いました。それによると、少数派言語話者が医療情報をもっと入手できる環境が整えば、親族や友人の死は避けることができたはず――と答えた翻訳者は、63%に上ったのです。

TWB は医療情報のギャップを埋めるため、誰もが利用可能なインターネット百科事典「Wikipedia」や ウィキメディア・カナダ (Wikimedia Canada) などの多くの非営利団体、大手携帯電話サービスプロバイダーなどと連携して、重要な 医療情報 やアドバイスを、各地の少数派言語で伝えたり、医学論文翻訳を行ったりしています。英語版ウィキペディアに掲載された医療記事のうち上位80本を特定し、医師で構成されるチームがそれらの記事の正確性を確認。その後に編集者チームが、より分かりやすい英語に書き直し、最後に翻訳者チームが、記事を自分たちの母語に翻訳するのです。このプロジェクトは主として、信頼できる情報をオンラインから入手できない言語(ベンガル語、マケドニア語、ダリー語、グジャラート語、タミル語など)に焦点を当てており、それぞれの言語の話者がボランティアで翻訳を行いました。

医療記事を80言語に

前述したように、世界には無数の少数派言語が存在しているにもかかわらず、それらの多くは、翻訳によって利益を得られるほど市場規模が大きくないため、医療情報を含む重要な情報の翻訳が行われず、結果として情報が提供されないままとなっています。世界の何百万もの少数派話者が時代に取り残され、生命を脅かされる事態まで生じているのです。

TWB やその他の社会問題に関心の高い組織・団体は、協力してこの問題に取り組み始めています。 TWB は、基本的な医療情報が届いていない何億もの人々に情報を提供するため、英語版ウィキペディア上で特定した80本の医療関連記事を80の少数派言語に訳出することを最初の目標としています。数多くの名もなき勇者たちが非営利で翻訳を行い、今日も世界のどこかで、少数派言語の話者の命をつないでいる――。翻訳とは、命を救うことにもつながる尊い仕事なのです。

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